懐かしい手紙が出てきました。
今まで面談をし出会った若者の履歴書を見ていました。
その中には手紙もあり、彼の思いが綴られていました。

2006年の1月18日の文章(日記)に胸に何かが突き刺さった様で涙が止まりませんでした。
とありました。
その当時のホームページ状の日記(今はリンクしていない)に何を書いたのか、自分で調べてみました。
以下 2006年1月18日 の日記より
1/18 フスフスと。
寒くない!全然寒くないんで、家具作りは実に快適である。
体を動かせば、汗ばむほど。ブラックウォールナットの香りと、ナラの香りがミックス。そしてストーブの臭い。休憩のコーヒーに香り。
一冬の思い出になっていく。
なんだか、最近強く思う事がある。以前にもまして強く思う事である。
それは、僕ら無垢材で家具を作る職人の事である。素材と対話し、いかに楽しく作るか、そして愛せるか。製作中に同じ時間が流れるとは限らず、人によっていかようにも楽しくも苦しくもなる。
こんな時代だから言うが、いかに「愛」を抱きながら、その家具を作るか、自分ときちんと向かい合って正直にそして素直に勝負できるかである。
去年から、建築業界の信じられないような現実のニュースを耳にするが、同じ物作りをしている人間として、すごく腹立たしい。そして痛い。
自分の仕事にプライドをもっていれば、単純な作業などの仕事時間さえ愛おしく思えるのに。
あたりまえの事が、適当にされる程マヒするような物作りなら止めたほうがいいと思う。
そのあたり前の事に、むしろ欠かせない重要な事があるのかもしれないし、あたり前の事がなくなった状況になって、貴重さが身に染みるってもんだろう。その時既に遅しである。
お金をもらい仕事をしている事の、意味と現実をよく把握し理解しなければ、クライアントに感謝すらできず自分自身を愛せる物作りなんてできる訳ない。と強く思う。
仕事をする以前に、愛情のある人間である事が大事だと思う。
そういう意味でも、修行というものの大切さを感じる事ができる。
すぐお金お金(効率優先)と結びつけようとする情けない物作りからとは違った世界で、純粋に物と格闘する時間は、とてもとても大切である。そうした物を理解できて初めて、仕事として成立していくものだと思う。
簡単に出来上がってしまう物が多すぎて、昨日まで素人なのに、突然プロとして報酬を得るような物作りは危険だ、と僕は思っている。
物を作れば、金になるという時代なんか最初からない。逆に、どんなくだらない物だって、人によってはものすごく大切な事だってある。
いかに大切にしてもらえるかどうかは、愛してくれる人に対して愛されるべき物をつくる事ができるかどうかである。
僕は、自分の作っている家具に関しては、ものすごく自信をもっている。けど、現状の自分の能力にも常に反省もしている。家具職人として生涯をかけたいと思っているから、終わりなき、葛藤は覚悟しているし、そんなにいい事ばかりある訳なく、逆にいい話しなんてある訳ないと思っている。だから、どんな逆境も覚悟の上で、少しでも素敵な事があれば、それで十分人生楽しめる。
自分の毎日、すなわち私的木工人生においては、絶大なる希望と野望、そしてある意味絶望さえ、とっくに覚悟している以上、自分に嘘と不安はなく、よってこれから先、僕が納得して作り出して行く物達に関しては、ものすごく自信がある。
でも、どんなに家具作りに磨きをかけたところで、一人の人間としての「すごさ」みたいなものは上がる訳でもなく、謙虚である事の意味を失う方が、むしろ恐怖である。
とにかく、「仕事=お金」とすぐに直結する若者は要注意である。あなたの仕事はちゃんと仕事として成立するまでに至っているのか考えるべきである。
謙虚な考えが自然に芽生えれば、素敵な作り手として仕事をしていけるだろう。まあ、金持ちにはなれんけどね。
仕事に情熱を注ぎ、生き甲斐にしたいなら、覚悟したほうがよい。
まず、諦める事からはじめる。いろんな事を諦めて、仕事に専念すべし。そして、物作りに専念し、費やした時間と思いの分、酬われると信じてがんばるのみ。
何年たっても、それは同じ。そう僕も生涯修行中だろう。