09.08 Sun
家具作りをしているわけだが、ボク自身のこと。

木の家具というと、日本的に言えば木工という言葉があるが、ちょっとフィットしない。
必要なスペックといえば、鉋やノミという道具や木工機械を使いこなす木工技術はもちろん欠かせない。
それで十分かといえば、まったくそうでなく、本物の木を素材にする以上そのスペックは当たり前であって、小説家であれば文章を読み書きすることと変わらない。人の心や人の時の感動に値する小説を生むには、想像力という特別な才能が必要なのであろう。
発想やクリエイティビティは新しい家具を生む(創る)うえで、一番大切なことである。

思いや思想などは置いておいて、まずワクワクしながら想像しているかどうかは、いい家具になるかの単純なわかりやすい基準となっている。



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思いや思想は、それを説明しているだけで、衝動ではない。

何かわからないが、自分の心のトキメキやキュンとくるような部分にふれながら、デザインは進んでいく。
デザインももちろん作業ではなく、素晴らしい小説を自分自身の内面から、もがきながら整えながらアウトプットしていくとてもマイノリティーな内面への探求であり、クライアント(使用者)への敬意と愛情がからみながらの贈り物を考えるプロセスのようなものである。

素材に関していえば、五感で感じるもの。視覚でわかる部分は多いが、感じるというのは視覚とは違う。
そこが生きているリアリティーであって、作業の後の達成感だったり、いいことをしたあとの満足感だったり。

創るということで言えば、体を動かし手を動かし、ちゃんと疲れることだ。
エレルギーを物に移していく。職人として汗をかき、テキトーにやれば結果がでないほど真剣さが欠かせない。
面白いことに、真剣にやればいいものになるかと言えば、そうでもない奥の深さがある。
ここでも単純でわかりやすい基準である「ワクワクしているか楽しいか」が満たしているかである。
むしろ鼻歌まじりのほうが、最高のスペックを発揮していることは多いし、出来上がったものが弾むようなやわらかさや優しさを感じる。

単なる僕の主観である。
せっかく生まれて生きているのだから、自分を楽しくするだけの自分でいるほうがいい。

日々を消費したくないボクは、五感が活きる日々への憧れを持っているのかもしれない。
そしてそれは、命そのものへの敬意と儚さをいつも感じているともいえる。


誰しもが、心が楽しく(愉しく)ある自分でいて欲しいと思う。

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